一升瓶の中の海月

気分で更新される思考の投函口

「在ること」への感謝

 

 

当たり前のように日々が流れていく。

 

いつものように起きて、いつものように働いて、いつものように疲れ果てて帰路につく。

 

変わるものは昼食の内容くらいで

「今日は奮発してリンガーハットで野菜たっぷりちゃんぽんでも頼もうかなぁ」なんて、

そんな柚子胡椒ソースほどのスパイスが人生を彩る。

 

 

そんな中で

 

 

今回のスパイスはいつか口にした味がして

 

 

 

 

如何なるものであれ、永遠はありえない。

 

自分がこれを身に染みて感じたのは、親友の父の死、Vtuberの推しが消えゆく時、三年間通い詰めた中華料理屋が店仕舞いした時と、近過ぎないものが失われた時というのが、自分に固執してない感じがするなぁと思いながら

 

 

親友の父の死は辛かった。

本当に大学に行く気分じゃなくなったし、部屋からずっと窓を眺めて。大学に行っても池の端に座って遠くを眺めてた。なんて声をかければいいのか、高校の恩師にメールしたりもした。

 

推しが消えゆく時。何一つ与えられない自分にせめてもの贈り物をして、それしか出来ない自分に無力感しかなかった。全ての終わりを感じた。

 

親友とよく行ってた中華料理屋が閉店すると聞いた時。本当に店で突っ伏して泣いた。親友と一緒に飯食ってたのにそれどころじゃなかった。

 

 

歳を食っていくうちに当たり前の日々に慣らされていき、新しいものを見る目すら失っていく。

子供が死を知らないわけではなく、新しいものを見つけることが出来るから、興味を持つことが出来るから、一つのものに執着しないからこそ、忘れることが出来る。

生傷どころか心も年齢と共に回復力が落ちていくわけで、代わりに痛みに耐えることだけを覚えて、それが大人になることだって何となく分かり始めてしまった自分が嫌になる。

 

ただ、終わりがあるということを知ることは、今の感謝に繋がる。

 

 

当たり前の日々のピースに一欠片でも感謝を。

 

推しが今も活動することにありがたさを感じて生きていきたい。

 

 

 

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